神無月。中旬に入ると、猛威を振るったデルタ株もやっと落ち着いてきた。とはいえ、お山では極力、人と会わないコースを選択するのは当然といえば当然のこと。感染下り坂のこの機会を捉えて、そろそろピークであろう紅葉を堪能しようと、約20年ぶりにこのルートを歩くことにした。
前回(2002年10月)は、逆コースだったけれど、真っ盛りの紅葉が素晴らしく、実質6時間弱(休憩時間を除く。)で駈け抜けた、といっても良いお山だった。相棒が東予地方の秋祭で来れず単独行になったが、燃えるような紅葉と少し前にあった夫婦連れ遭難の現場に張られたテープ、中途で出会った一人歩きの修行僧(正法寺かな?)などが強く印象に残っている。 されど、歳月を重ねて古希間近。このじじいには、もはやそのコースタイムは夢の彼方だった。
1971年(昭和46年)に刊行された「赤石山系の自然」(以下、「同書」と略称する。)の中で、著者の伊藤 玉男氏はこのコースのことを次のように紹介している。
『このコースは赤石山系は勿論、四国第一の難コースである。この縦走が困難な理由として先ず第一にブッシュ(藪)が多い。第二に各所に岩場がある。第三に水場がない。第四に途中に逃げ道がない。第五にキャンプサイトがない。ことなどがあげられる。』 (中略) 『余り細かく記しても却って煩雑で解りにくいだろうから、要点を述べることとする。 尾根は絶対に大きくはずしてはいけない。難所を巻くために凡そ何10mも下ることはない。せいぜい10mも下れば又上りになるので、下り過ぎたと思えば引き返すべきである。 逆に東(二ッ岳)から西(権現越)に縦走する場合、間違いやすい所が2か所ある。これは稜線が雁行しているからである。絶壁に出たら引き返して踏み跡を探すべきである。』 などなど的確な解説で、著者の山系への造詣の深さが随所に現れており、熱意もひしひしと伝わってくる。 注:(二ッ岳)、(権現越)は原文にはなく、追補している。
また、1979年(昭和54年)に落し(遠登志)から入って西赤石を経て赤石山荘に宿泊した際、小屋主から「せっかくここまで来たんだし、あんたらなら二ッ岳まで大丈夫だから、是非行きなさい。」と勧められたけれど、土日の休暇を利用した山行だったので、断念した経緯もある。これが2002年の山行の伏線にずっとなっていた。
じじいの戯言が長くなってしまった。 今回は、県道47号線の床鍋集落入口の路側帯に車をデポし、もう一台で相棒と肉淵林道を走る。最後の集落を過ぎると細い、枯葉のたまった、それでも舗装された道だ。登山口手前の100m程の砂利道も20年の歳月の間に舗装されていた。
ところで、肉淵という地名は、山間部ではやや違和感があるが、このことも著者は同書で次のように解説している。
『にくとは、羚羊の俗語である。羚羊や鹿は敵に襲われると、山中を駆け走り、疲れてくると谷川に降り、淵を見付けて水浴する習性がある。又、水浴をする場所も谷や川によって決まっている。かつては、この肉淵は彼等にとって最良のオアシスであったろうに。』 この山系で羚羊さんには面会できていないけど、すぐそこの昔にはいたのだ。
7:00過ぎ、久しぶりの、錆びた鉄階段を登って峨蔵越に向かう。最初は、標高差100m程の植林帯の急登だ。汗ばんできた頃、尾根を巻いてゆく道になった。すぐ先で、1690年(元禄3年)に大坂泉屋(住友家)の調査団が別子銅山検分のために越えた、由緒ある小箱越へと続く道が分かれているはずだが、見落としてしまった。
最初、荒れ気味だった道も歩くにつれて、しっとりとした風情のある道にかわり、明るくなったなと思ったら峨蔵越だった。1時間程だけど、気持ちの良い道だ。
さて、ここからいよいよ四国第一の難コースが始まる。といっても、春に二ッ岳までは往復しているので、ある程度予想もできて気は楽だった。
灌木群が邪魔をする道を30分程漕いで、鯛の頭に出た。20年前もあった木製の道標は頂部が朽ち、柱に彫られた文字だけになってしまった。頭には春登ったのでパスし、先を急ぐことにする。
標高差400m弱のほぼ直登の道を頑張って、9:30二ッ岳山頂に着いた。お山の由来は絶壁が二つ並んでいるので、旧別子山村の人々はこれを「二ッ立て」と呼び、どうやらこれがなまったものらしい。
されど、だ。三角点先の岩場からエビラ山方面を一見して、落胆した。期待していた紅葉はさっぱり。まぁ夏の長雨に10月に入っても夏日があるような天候だったし、無理もないかと渋々諦める。
やや気落ちしつつ、イワカガミ岳への縦走路に入る。道標にも難路とあるが、危険というより迷いやすい道で、おまけにやたらと岩塊群がお出ましになる。灌木群と相まって、このミックスは歩き難いこと夥しい。
一旦、高度を下げてまた登りになり、ひょっと木を乗っ越したら、左手にケルンもどきの岩積みがあった。このお山は山頂標識がなく、これがその代わりなのだろう。
ここから先は、ポツポツ現れだした紅葉を味わいながら行く。鮮やかさはもうひとつでもやはり美しいわ、来た甲斐があった。
地形図にある、南にトラバースする地点を無難に通過し、10:50エビラ山への中間点で一休み。眼下の見事な造形の岩峰群を愛で、次々と現れる岩場と灌木群ミックスを漕ぐ。
アップダウンに苦労しつつ進んで、だいぶ、エビラ山が大きくなって来たけど、まだ全行程の半分も来ていない。
標高差100mほどの明るいダケカンバ林を登り切ったらエビラ山だった。20年前はここに1,670mの山頂標識があったけれど、今は5分程南に行った独立標高点(1,677m)が山頂だ。
山頂からそのまま少し移動して「展望岩」の上でやっとお昼。なんとか12:00前に着くことができ、じじいの足では上出来ですよと相棒の眼が言っている。 展望岩はさすがに良い眺めで、茶枯れのサラサドウダン越しにこれから向かう黒岳(天狗)と日本石の頂部が望め、権現山はもう頂上部にガスが纏わりついていた。
エビラ山を下りきって小さなコルの先で岩を横にトラバースする。下調べで危険か所の表示だったが、まぁどうってことはないところ。直前の岩峰群の迫力の造形美とドウダンの紅葉をたっぷり堪能してから通過。
しかし、岩場だらけでさすがに倦んできた。黒岳は目の前だけれど、「まだまだありますよ、頑張りなさいね。」と山の神が手招きしているようだ。春に「もっと赤石山系に来なさいよ。」と言っておきながら、ほんま手荒い歓迎や。
13:35黒岳山頂。この間が一番、時間がかかった。あれだけ悪路だとピッチのあげようがない。でも、これでやっと半分来た。ここから先は少し道が良くなるはずだし、これまでよりは…。
山頂から東面にはエビラや二ッ岳、遠く赤星山が、西面には日本石の鋭い岩峰が望める。狭い山頂だけれど、展望はなかなか優秀なピークである。
黒岳からの下り、ザラ場でザクロ石(ガーネット)の原石探しをする。見つかるわけないよねと思いつつ、つかの間、遊ばせてもらった。
日本石の分岐まで15分だった。道は明瞭でも道標は日と石の字が剥落し、本しかない。知らない人は判らんよね、これ。
ともあれ2,3分なので、岩峰の先まで行ってみる。崖下のバンド状のサラサドウダンの紅葉が綺麗だった。振り返ると三角形の黒岳とその肩にエビラ山が覗き、はるばる来たなぁと、年甲斐もなく感慨に浸る。
こういう岩場はやはりその上に立つより眺めるのが上策だと思う。1,546mピークへの登りからの遠望の方が迫力があった。
あれこれ文句をつけながら、15:00前に権現山(地由山)のピークを踏む。道はぐっと良くなってピッチも上がり、有難い限り。もうすぐエビラ山や黒岳も見納めになるので、10分程、ゆっくり休憩を取る。
もう東赤石は夕照間近かで黒いシルエットになり、ゆったりとガスが纏わりつき始めていた。
四電巡視路分岐を通り過ぎ、結界の荒縄をくぐって、権現岩の法王権現にお参り。もう咲くことはないリンドウが二輪、ひっそりと日陰にあった。
15:25権現越着。権現岩から人のように見えたのは丸い看板だった。風の吹き抜ける夕刻の峠はなにか物悲しく、白地に赤の道標も少し寂しそうだった。
5分程休んですぐ出発。もうここからは下るだけだ。あまり道の良くない印象だった床鍋道の上半分も峨蔵越から歩いてきた身には上等の道で、まぁこうも印象が変わるものかと我ながら呆れた。 東側の権現尾根を見つつ下りに下って、30分程で四電巡視路分岐。ヘッドランプを準備し、エナジー補給で体調を整える。
周りが植林帯になり、やがて床鍋集落の人家が見えて、旧別子山村と三島警察署の案内看板のある登山口に16:45降り立った。日が落ちる前に何とか間に合って、ヘッドランプを使わずに済んだのはラッキーだった。
赤石山系は山自体のスケールがやや小さいものの、今回も行程中、誰一人会わず、満足のゆく静かな山行だった。車デポ地点へ車道を下りながら、相棒が見つけてくれた、ジンジソウの大群落がほの白く輝いて、長旅、ご苦労様とねぎらってくれているような気がした。